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大阪地方裁判所 昭和62年(ヨ)1281号 決定

当事者の表示

別紙当事者目録記のとおり

主文

一  申請人らが、それぞれ被申請人の従業員たる地位にあることを、仮に定める。

二  被申請人は、申請人らに対し、それぞれ別紙認容債権目録記載の金員を、仮に支払え。

三  申請人らのその余の本件仮処分申請を、いずれも却下する。

四  申請費用は、被申請人の負担とする。

理由

(申請の趣旨)

申請人らは、「被申請人は、申請人らを被申請人の従業員として取り扱い、かつ、申請人らに対して、別紙請求債権目録記載の各金員を支払え。申請費用は被申請人の負担とする。」との裁判を求めた。

(本件事案の概要と争点)

一  被申請人は、我が国有数の総合家電メーカーである。被申請人は、従来より、いわゆる正社員のほか、二か月の契約期間を定めて採用する臨時社員を、従業員として雇用してきたが、昭和五五年四月以降、新たに定勤社員制度を設け、二年以上継続勤務し成績が一定水準以上の臨時社員のうち選考を経た者については、これを定勤社員として、契約期間を一年とする労働契約を締結するようになった。

申請人らは、それぞれ左記年月日に、臨時社員として被申請人に入社し、その後定勤社員となり、いずれも、定勤社員としての契約更新を重ね、後記住道にある被申請人の事業部において稼働していた。

申請人 入社年月日 定勤社員となった年月日

池田富子 昭和五〇年五月一二日 昭和五五年九月二一日

池田良子 昭和五四年一〇月八日 昭和五九年三月二一日

上西眤子 昭和五五年七月七日 昭和五八年三月二一日

岡田久子 昭和五四年一月二九日 昭和五六年三月二一日

黒井静子 昭和五四年八月二七日 昭和五九年三月二一日

高津美佐子 昭和五五年一〇月八日 昭和五八年三月二一日

立石安子 昭和五四年四月二三日 昭和五七年三月二一日

筒井初枝 昭和五五年六月三日 昭和五八年三月二一日

中川作枝 昭和五一年四月一二日 昭和五五年五月二一日

中本きみ栄 昭和五四年六月四日 昭和五九年三月二一日

福田節子 昭和五四年五月一四日 昭和六〇年三月二一日

真鍋勝子 昭和五五年四月七日 昭和五八年三月二一日

矢野エイ 昭和五四年六月六日 昭和六〇年三月二一日

山本孝江 昭和五〇年一〇月二一日 昭和五七年三月二一日

山本安子 昭和五一年九月二一日 昭和五五年五月二一日

被申請人は、昭和六二年二月ころ、大阪府大東市住道に、テレビ大阪事業部、ビデオ大阪事業部、電子部品事業部、オーディオ大阪事業部の四つの事業部をおき、正社員約五五〇〇名のほか、合計約一二〇〇名の定勤社員及び約二〇〇名の臨時社員を雇用していたが、同月一八日、右住道の四事業部に勤務する申請人らを含む定勤社員全員(ただし、一部例外を除く。)に対し、経営環境の悪化などを理由として、同年三月二〇日の契約期間満了をもって契約を終了させ、以降契約更新をしないこととする旨を告知した(右契約更新をしない旨の被申請人の措置を、以下「本件雇止め」という。)。

申請人らは本件雇止めの効力を争うものである。

二  申請人らの主張の要旨は、「申請人らと被申請人との間の労働契約(これを、以下「定勤社員契約」という。)における一年という期間の定めは形式的なものにすぎず、右契約は本来期間の定めのないものであるか、又は反復更新を重ねたことにより期間の定めのあるものから期間の定めのないものに転化したとみられる。たとえそうでないとしても、定勤社員契約は、期間の満了ごとに更新を重ねあたかも期間の定めのない契約と実質的に異ならない状態で存在していたものである。したがって、本件雇止めは解雇の意思表示にほかならないか、又は実質において解雇の意思表示に該当し、その効力の判断に当たっては解雇に関する法理を適用ないし類推適用すべきであるところ、本件においては、経営環境の悪化など解雇を必要とする事由がなく、あるいは単に定勤社員であるというだけで一律に解雇し誠実に協議や説明をする義務を怠るなど解雇権を濫用したものであって、解雇又は雇止めに合理的な理由を欠く。」というにある。

三  これに対し、被申請人の主張の要旨は、「定勤社員契約は本来的に一年間という期間の定めがある契約であり、これが一回ないし数回更新されたからといって期間の定めのない契約に転化するものではない。また、会社における従業員配置や仕事に関する基本的方針・考え方において、それぞれが従事する作業内容は明確に区別され、形式のみならずその実態・実質においても正社員と定勤社員とには截然たる区別がされていたから、定勤社員契約が期間の定めのない労働契約と実質的に異ならない状態で存在していたともいえない。このように有期契約を前提とするものである以上、本件雇止めの効力を判断すべき基準は終身雇用の期待の下に期間の定めのない契約を締結している正社員を整理解雇する場合とはおのずから合理的な差異があり、使用者に相当広範囲の自由が認められるべきであるところ、本件雇止め当時、円高の高進、経済摩擦の激化、アジアNICSの急成長などにより輸出環境が急激に悪化する中で、輸出比率の高い被申請人特に住道地区の四事業部は大幅な営業赤字を連続して計上するなど高度の経営危機下にあり、生産方法の転換や生産調整などを含め企業構造の根本的変革を迫られていたこと、被申請人は休日振替、時間休業、臨時社員の雇止め、全面休業等の諸施策を採ったうえ本件雇止めに至ったものであることなどに照らせば、本件雇止めには経営上のやむを得ない理由があったといえ、手続上の瑕疵もない。」というものである。

四  以上より、本件の争点は、

1  定勤社員契約は期間の定めのない労働契約であるか、あるいは少なくとも実質において期間の定めのない契約であると認めることができるか

2  右1の結論を前提として、本件雇止めに合理的な理由があったか否かの二つに集約されるということができる。

(争点1について)

一  当事者間に争いのない事実、疎明資料及び審尋の結果を総合すれば、以下の事実を一応認めることができる。

1  被申請人の創業は昭和二二年である。そのため、国内においては先発大手電機メーカーの存在により販路の拡大が極めて難しいこともあって、被申請人は国外販売(輸出)に力を注いできた。特に住道地区は、元来無線商品を中心に生産を行い、そのほとんどが輸出向けであったため、輸出比率は九〇パーセントに近かった。

昭和四〇年代に入り、一方では、その性質上不安定な輸出受注量の増減に対応する必要から、他方では、技術革新に伴う生産工程の大幅な自動化・機械化の実現により単純反復作業の範囲が拡大したことから、当時、余暇の増加、消費意欲の増大、生活意識の変化等により、家事との両立を前提として労働市場に参入してきた家庭婦人を対象として、一部の事業部においてパートタイマーが採用されはじめた。三洋電機労働組合は、当初はパートタイマーの導入に反対する態度を執っていたが、企業の人手不足によりパートでなければ働けない人までを必要とするようになったとの現状認識から、これを承認することに方針を転換し、昭和四二年八月、会社に対してパートタイマーの定義及び労働条件の明確化を要求した。こうして、同年一〇月、契約期間は二か月、労働時間は一日六時間、職種は原則として補助作業など、を骨子とするパートタイマー制度が正式に発足した。

その後、昭和五五年まで、被申請人の売上高は、全社レベルで、昭和五〇年と昭和五三年に若干減少したことを除けば、増加の一途をたどり、輸出高も昭和五三年を唯一の例外として順調に伸びた。また、売上高に占める輸出の比率も急上昇し、昭和五〇年代初頭においては全売上高の半分以上に達した。この間、被申請人の女子正社員数は、全社レベルで昭和四五年、住道地区レベルでは昭和四三、四四年をピークに、減少していったが、これとは逆に、パートタイマーの数は増え続けた。こうした中にあって、昭和五四年八月ころ、三洋電機労働組合から被申請人に対し、パートタイマーの労働条件改善の申入れがあり、労使間で協議がされた結果、昭和五五年四月から、従来のパートタイマーを「臨時社員」と「定勤社員」の二つに区分する新しい臨時従業員制度が開始された。これは、臨時従業員のうち一定基準以上の者について労働条件を引き上げたもので、具体的には、契約期間が二か月である従来のパートタイマーを「臨時社員」と呼称変更する、臨時社員として二年以上継続勤務し、前年度の出勤率が九二パーセント以上である者は、本人の希望により、面接や健康診断等を経たうえ、「定勤社員」として期間を一年とする労働契約を締結することができる、定勤社員は臨時社員より一日の労働時間が一時間長いが、時間給の額、残業割増率、年休、育児時間、慶弔休暇、慶弔見舞金、退職慰労金などの面で有利な扱いを受ける、というものである。

もっとも、新制度開始直後は、労働時間が一時間長くなることから、定勤社員になることを希望する者が少なく、第一次年度は、昭和五五年五月にした第一回募集に加え、九月に追加募集がされた。しかし、昭和五六年以降は、被申請人の事務処理上の便宜から、定勤社員の契約期間は毎年三月二一日から翌年三月三〇日までとすることに統一された。その後、定勤社員になる者は増加したが、それぞれの生産量に応じ臨時従業員を増員する必要がなくなった事業部においては、逐次臨時社員の採用が打ち切られていき、正社員数が増加するのとは逆に、臨時従業員数は、昭和五六年度に四一九六人(正社員数の二四・一パーセント)の最高値に達した後は減少に転じた。住道地区においては、テレビ事業部が昭和五六年一一月度、電子部品事業部が同年一二月度、オーディオ事業部が昭和五七年三月度、ビデオ事業部が昭和五九年八月度に臨時社員の採用を打ち切っているほか、昭和五九年一月一日から昭和六一年一二月三一日までの三年間に退職した定勤社員数は三四〇人、昭和六一年度における被申請人全社の臨時従業員数は三一九一人(正社員の一五・〇パーセント)である。

2  製造部門の仕事及び正社員と臨時従業員との違いに関する被申請人の使用者としての基本的な考え方は、仕事を複雑判断作業と単純反復作業とに二大別し、前者は終身雇用を前提とし相当期間の教育訓練を加えて指導育成する期間の定めのない正社員に、後者は生産量の大幅増減に対応して雇用量を調整することができるように期間の定めのある契約を交わして採用する臨時従業員に、それぞれ担当させる、正社員は被申請人の経営方針に基づき技術革新その他もろもろの環境変化に対応できる基幹要員であり、他に代替を求めることのできない仕事を担うが、臨時従業員は正社員の補助作業者として位置付けられ、知識や経験を必要としない誰でもすぐにできる簡単な仕事に従事し、被申請人としてもその仕事に質的な高まりは期待せず、教育訓練や特別な技術実習はしない、職場配置についても、正社員と臨時従業員とが混在して作業することは原則としてなく、作業編成は、定勤・臨時社員専属ライン、単純反復作業と複雑判断作業とで編成されたライン、正社員専属ラインの三つに型に分類されるが、右第二の型においても正社員と臨時従業員とはその作業内容を明確に区分されており、一時的、過渡的、教育的又は補助的な配置という各例外的な場合を除いては、正社員と臨時従業員とが外見上一緒に作業しているように見える場合はない、正社員と臨時従業員とではそれぞれの仕事に対する期待度が全く異なり、採用から退職に至るまで処遇においても明確に区分され、常に別体系として独立の運用をする、等の点に要約される。

被申請人の基本的な考え方によると、定勤社員も臨時社員と同様臨時従業員の一であって両者の間に仕事上の質的な差異はなく、ただ勤務時間が一時間長いというにすぎず、定勤社員から正社員への登用の道は一切ない。臨時社員から定勤社員になる際には、前記条件を満たして希望する者に対し、あらかじめ内定通知をして説明会を開催し、そこで定勤社員の心構えを説明し、適性検査を実施した上、契約期間を三月二一日から翌年三月二〇日までと明記してある契約書を作成する。適性検査により不採用とされた者はない。定勤社員の契約更新も、当然に更新されるのではなく、更新をするか否かは、事業計画、期首計画、月初計画、景気動向、業界動向、販売動向などに基づいて部門長会で検討され、事業部長が決裁する方法で決定される。契約更新と決せられた場合には、各事業部ごとにそれぞれの職場を通じて本人に契約書用紙二通を配布し、署名捺印を得た後、事業部長印を押捺、一部を被申請人が保存し、一部を本人に返還するとの方法で定勤社員の意思確認を行うことになっていた。もっとも、本件雇止めに至るまで住道地区において被申請人が契約更新を拒絶した例はない。また、社員側の事情等により契約書の回収などの更新手続が遅れることはあったが、右手続そのものは必ず行われていた。

3  処遇の面における正社員と定勤社員との制度上の差異はおおむね次のとおりである。

ア 募集・選考・採用

正社員の採用は、全社的な経営見通しや要員動向を確認した上で、毎年五月ころ翌年度採用人員を決定し、採用行政ルールに従い、他企業との競争の中で行う。各職種別に面接や技能能力その他のテストにより厳格に審査して選考をするほか、入社後二か月間は試用期間としてその間に適格性を見極めるなど慎重に対処することとなっており、採否の決裁権は本社に留保されている。

定勤社員となるためにはまず臨時社員として採用されなければならないが、臨時社員の採用は、各事業部においてその都度必要に応じて募集人員を決め、通勤可能範囲の生計主体者でない主婦層を対象に、新聞広告や散らしなどを通じて募集し、簡単な面接をするほか主に健康診断結果に基づき各事業部長の権限により採否を決する。

もっとも、現実には、女子正社員については中途採用を行った時期もあり、その際、一枚の散らしにパートタイマーと並べて、女子正社員の募集をしたことがある。

イ 社員教育

正社員の場合は、採用内定後入社前に会社の概要や社会人としての心得等につき通信教育を実施するほか、入社後も作業の基本等を習得させるための職場実習を行うが、臨時社員の場合は、そのような研修はなく、即日現場の監督者や指導員が作業上の注意事項や簡単な工具の扱い方、担当作業を実演してみせて教える程度のものにすぎない。

ウ 異動

正社員の場合は、業務の都合、人材育成又は人事交流上必要のある場合は転勤、出向、派遣、駐在等を命ぜられることがあるが、定勤社員の場合は、そのようなものはなく、高々作業の移管等による勤務場所の変更(ただし、住道地区内に限る。)があるにすぎない。

エ 昇進・昇格

正社員の場合は人事考課に基づく昇進・昇格制度があるが、定勤社員には昇進・昇格制度はない。

オ 退職基準(会社都合による解雇に際しての裁量の有無)

正社員の場合は、事業縮小、閉鎖・設備更新などにより整員することを適当と認めたとき解雇されるが、定勤社員の場合は、事業縮小、閉鎖、設備更新などにより剰員となったとき当然に解雇される。

カ 定年制

正社員の場合は満六〇歳が定年であるが、定勤社員の場合は、定年制はなく、ただ更新時に満五六歳以上の者については更新をしないという契約更新時の年齢制限があるにすぎない。

もっとも、各職場においては、定勤社員についても、右年齢制限に基づく最終の契約の期間満了のことを、「定年」と俗称していた。

キ 表彰制度

正社員の場合は永年勤続を期待しての永年勤続表彰があるが、定勤社員にはこのような表彰はない。

ク 福利厚生

正社員の場合は、永年勤続を前提とした社内預金、厚生貸付金、住宅貸付金、財形貯蓄制度等の諸制度があるが、定勤社員にはこれらのものはない。

ケ 賃金制度

正社員の場合は、仕事の高さや熟練度に対応し、勤続年数(年功)による序列的な賃金体系が組まれており、完全月給制であるが、定勤社員の場合には、賃金制度はなく、時間給を基礎とする日給制である。

コ 退職金

正社員の場合は、退職金額は勤続年数による序列的な基本給に退職事由別による一定の率を乗じて計算されるが、定勤社員の場合は、一般退職か自己都合退職かによる別と、結果としての雇用期間の長さとにより、あらかじめ定められている額が退職慰労金の名目で支払われるにすぎない。

サ 退職年金

正社員の場合は退職年金制度があり、定年退職後一〇年間年金の給付を受けることができるが、定勤社員にはこの制度はない。

4  池田富子は、昭和五〇年五月一二日に臨時社員となり、上司に勧められて昭和五五年九月二一日に定勤社員となり、その後更新を重ねて、本件雇止め当時は、テレビ大阪事業部基板製造二課において、Mラインに付き、プリント基板に部品を差し込む「植込み」といわれる作業に従事していた。

池田良子は、昭和五四年一〇月八日に臨時社員となり、昭和五九年三月二一日に定勤社員となり、その後更新を重ねて、本件雇止め当時は、テレビ大阪事業部製造一課において、コントロール組立ラインに付き、コントロール・ブロックにビス・ナット類で部品を取り付けることを主体とする作業に従事していた。

上西眤子は、昭和五五年七月七日に臨時社員となり、昭和五八年三月二一日に定勤社員となり、その後更新を重ねて、本件雇止め当時は、テレビ大阪事業部製造三課において、メイン・フライバックトランス取付準備作業に従事していた。この作業は、指定された個所にハウジング二本を挿入し、前工程で取り付けられたフライバックトランスがしっかり固定されているかどうかを確認して通函に入れる作業である。

岡田久子は、昭和五四年一月二九日に臨時社員となり、昭和五六年三月二一日に定勤社員となり、その後更新を重ねて、本件雇止め当時は、テレビ大阪事業部基板製造二課において、Lラインに付き、池田富子と同様、「植込み」といわれる作業に従事していた。

黒井静子は、昭和五四年八月二七日に臨時社員となり、昭和五九年三月二一日に定勤社員となり、その後更新を重ねて、本件雇止め当時は、テレビ大阪事業部製造一課において、池田良子と同様の作業に従事していた。

高津美佐子は、昭和五五年一〇月八日に臨時社員となり、昭和五八年三月二一日に定勤社員となり、その後更新を重ねて、本件雇止め当時は、ビデオ大阪事業部ビデオ第二部製造四課において、8ミリビデオカメラ基板組立工程に付き、手挿入されたプリント基板の植込み状態を肉眼で検査する作業に従事していた。

立石安子は、昭和五四年四月二三日に臨時社員となり、昭和五七年三月二一日に定勤社員となり、その後更新を重ねて、本件雇止め当時は、テレビ大阪事業部基板製造二課において、Mラインに付き、「箱詰め」等の作業に従事していた。

筒井初枝は、昭和五五年六月一二日に臨時社員となり、昭和五八年三月二一日に定勤社員となり、その後更新を重ねて、本件雇止め当時は、電子部品事業部ビデオ部品部製造三課において、下シリンダー組立工程に付き、前の作業者により整形されたリード線に測定子を当て、測定器に表れる数値によって良品と不良品とをえり分ける作業に従事していた。

中川作枝は、昭和五一年四月一二日に臨時社員となり、昭和五五年五月二一日に定勤社員となり、その後更新を重ねて、本件雇止め当時は、テレビ大阪事業部基板製造二課において、Lラインに付き、主にプリント基板に部品を手挿入する作業に従事していた。

中本きみ栄は、昭和五四年六月四日に臨時社員となり、昭和五九年三月二一日に定勤社員となり、その後更新を重ねて、本件雇止め当時は、テレビ大阪事業部製造一課において、コントロール組立ラインに付き、主としてコントロール・ブロック組立完了後の外観検査に従事していた。

福田節子は、昭和五四年五月一四日に臨時社員となり、昭和六〇年三月二一日に定勤社員となり、その後一回更新して、本件雇止め当時は、ビデオ大阪事業部ビデオ第二部製造四課において、8ミリビデオカメラ基板組立工程に付き、組立ての完了した基板を分割する作業に従事していた。

真鍋勝子は、昭和五五年四月七日に臨時社員となり、昭和五八年三月二一日に定勤社員となり、その後更新を重ねて、本件雇止め当時は、電子部品事業部ビデオ部品部製造三課において、ビデオシリンダー完成工程のAラインに付き、ビデオシリンダーをシリンダーベースと呼ばれる部品にネジで取り付けて固定する作業に従事していた。

矢野エイは、昭和五四年六月六日に臨時社員となり、昭和六〇年三月二一日に定勤社員となり、その後一回更新して、本件雇止め当時は、電子部品事業部ビデオ部品部製造三課において、下シリンダー組立工程に付き、自動式バランス修正機の所定の位置にFWDと呼ばれる部品を置く作業に従事していた。

山本孝江は、昭和五〇年一〇月二一日に臨時社員となり、昭和五七年三月二一日に定勤社員となり、その後更新を重ねて、本件雇止め当時は、電子部品事業部ビデオ部品部製造二課において、ビデオヘッド組立工程に付き、ヘッドチップのテープに接触する部分等の外観検査に従事していた。

山本安子は、昭和五一年九月二一日に臨時社員となり、昭和五五年五月二一日に定勤社員となり、その後更新を重ねて、本件雇止め当時は、電子部品事業部ビデオ部品部品質管理課において、ビデオヘッドの品質保証のための六項目程度の検査作業に従事していた。

二  右一応認める事実によれば、定勤社員は被申請人において臨時従業員の一として位置付けられており、処遇の面でも正社員とは明確な差異があるうえ、毎年契約書を作成して契約を更新するという手続が履践されていたのであるから、定勤社員契約は一年という期間の定めのある労働契約にほかならないというべきであり、これが当初から期間の定めのない労働契約であったかとか、反復更新を繰り返すことにより期間の定めのない労働契約に転化したとかの事実を一応認めるに足りる疎明資料はない。

しかしながら、他方、定勤社員は、臨時社員として二か月の期間の定めのある労働契約を連続して少なくとも一一回更新し、二年以上継続勤務してはじめてその資格を得られるものであること、しかも定勤社員になれば契約期間が一挙にそれまでの六倍になること、定勤社員になる際には簡易とはいえ適性検査を受けなければならないのに、その後の契約更新の際は単に書面を作成すれば足りること、申請人らが勤務する住道地区の事業部において、従来定勤社員が雇止めされた事例はないこと、申請人らはいずれも臨時社員として二年以上継続勤務したうえ、決して短いとはいえない期間の契約を一回以上更新した経験を有すること、申請人らの従事していた作業が単純反復作業であるとしても、商品製造という事業部本来の目的のためには直接必要不可欠のものであったことを考えると、定勤社員契約は、その実質において期間の定めのない労働契約と異ならない状態で存在していたものと認めることができ、本件雇止めの効力を判断するに当たっては、解雇に関する法理を類推すべきである。

(争点2について)

一  当事者間に争いのない事実、疎明資料及び審尋の結果を総合すれば、以下の事実を一応認めることができる。

1  昭和五〇年代後半の国際通貨情勢は、ドル高を基調として推移してきたが、昭和六〇年九月のG5(先進五か国蔵相会議)を契機にアメリカで本格的なドル高是正策が実施されるなどした結果、円高が急速に進展した。すなわち、円の月間平均レートは、昭和六〇年九月には一ドル二三六円(円未満切り捨て、以下同じ)であったものが、昭和六一年一月に二〇〇円、五月に一六六円、八月、九月に一五四円となり、その後昭和六二年一月まで一六二円から一五四円の間を上下した。

また、昭和六〇年の我が国経常収支の黒字幅は前年の三五〇億ドルを大幅に上回る四九二億ドルを記録した。このため、特に日米間では、拡大した対米貿易黒字等を理由に米議会を中心に対日批判が高まり、アメリカは、保護主義的な立場から巨額の日米貿易不均衡の是正等を要求してきたし、一方、EC諸国も、我が国に対し、市場開放、貿易不均衡是正等の要請を強めてきた。これらの貿易摩擦への対策として、通産省は電機メーカーに対し、各種電子機器の海外での生産を急ぐよう要請を始め、被申請人を含めた我が国輸出関連企業は、部品調達を含めた海外事業地での生産に移行せざるを得なくなってきた。

さらに、韓国、台湾、香港、シンガポール等のいわゆるアジアNICS(旧称であるが、以下この呼称を用いる。)諸国は、各々の通貨が米ドルとほとんどリンクしているため前記昭和六〇年秋以降の円高により日本製品に対して相対的に価格競争力が向上したこと、人件費等の生産コストが我が国の数分の一であることなどにより、電子機器分野の我が国の牙城を急速に脅かしつつある。昭和六一年上半期の生産量をみると、白黒テレビ、ラジオ、テープレコーダーは我が国を既に追い抜き、カラーテレビは我が国の八五・六パーセントにまで迫っている。このため、韓国との競合が激化したビデオでは、競争力低下を懸念するあまり、対米輸出価格の大幅な値上げができないなど、我が国の輸出商品の円高による価格転嫁は一向に進まず、貿易摩擦の種を減じることができずにいる。

かかる情勢下において、我が国の製造業は輸出型業種を中心に大幅に売上高を低下させ、収益率の改善を図るため人件費等の削減などの努力を重ねた。昭和六二年一月時点で通産省が実施したアンケート調査によると、何らかの雇用調整策を実施したと回答した企業数は、製造業全体で七五・六パーセントに達し、特に、輸出型業種では九〇・三パーセントに達している。

2  前示のとおり、被申請人は輸出主体の企業であり、昭和六〇年度には全社の輸出比率が六〇・六パーセントにも達していた。

被申請人の売上高は、昭和五八年度は八一九七億六六〇〇万円、昭和五九年度は九九一七億〇八〇〇万円、昭和六〇年度は一兆〇四七六億三三〇〇万円と、順次伸長してきたが、昭和六一年度(昭和六〇年一二月一日から昭和六一年一一月三〇日まで)に入って、月次売上高は軒並み前年同月を下回り、上半期の売上高は四二九四億六九〇〇円(ママ)(対前年同期比八二・八パーセント)、減収額は八九三億七七〇〇万円になった。この傾向は下半期になっても継続し、売上高は四〇九三億六九〇〇万円(対前年同期比七七・四パーセント)、減収額は一一九四億一九〇〇万円となり、結局、通期の売上高は八三八八億三七〇〇万円にとどまり、対前年比で二〇八七億九六〇〇万円(一九・九パーセント)減となった。

昭和六一年度の輸出高は急減し、対前年比で六四・七パーセント(二二三六億三四〇〇万円減の四一〇七億三八〇〇万円)にまで落ち込んだ。

また、生産高も、昭和六〇年度上期五三〇四億九五〇〇万円、下期五一九九億一一〇〇万円、昭和六一年度上期四三五五億六七〇〇万円、下期四〇七四億三七〇〇万円と急激に減少した。

その結果、昭和六一年度は、収益面では創業以来初めて営業利益段階で二八億〇七〇〇万円の赤字となり、前年と比較して二九〇億円もの減益となった。営業外損益では、手持ち有価証券の売却や、いわゆる財テクなどの金融収支等により営業利益の赤字を埋めたものの、金融収支も、資金の減少と市場金利の低下によって黒字幅が減少し、加えて六五億三九〇〇万円の為替差損が発生したことなどにより、経常利益は対前年比で四三三億三六〇〇万円(七四・一パーセント)減の一五一億五八〇〇万円となった。

被申請人は、こうした経営環境の激変に対応すべく、昭和六一年一二月一日をもって東京三洋電機と合併し、製・販一体化、重複投資の回避による経営の効率化を目指すこととした。

昭和六一年度までに被申請人の行った収支改善対策は次のとおりである。

ア 経費の大幅削減

昭和六〇年一一月、翌六一年度の事業計画策定にあたり、本社管理部門は、間接経費の大幅削減をし、前年同期を下回る水準での予算編成を行った。

具体的には、人件費において時間外労働を原則として発生させないこと、消耗品費においてすべての用紙の使用を従来の三分の一程度に節減すること、旅費において出張の回数や手段に検討を加え極力節減すること、通信費において電話の使用回数・時間を極力節減することなどであった。

さらに、昭和六一年三月、経費の追加削減をした。

昭和六一年度下期には、すべての経費を前年同期の実績金額以下に削減することとなった。

昭和六一年一一月、翌六二年度の予算編成にあたり、当初計画が、時間外手当の一律一〇〇パーセント削減、教育訓練費など六項目の二〇パーセント削減、厚生費など五項目の一〇パーセント削減、宣伝広告費など七項目の五パーセント削減などを織り込んだものに改定された。

イ 設備投資の削減

設備投資の実績は、昭和六〇年度に一〇八七億一九〇〇万円であったものが、昭和六一年度は六五四億七六〇〇万円に落ち込み、昭和六二年度の計画では五一〇億円とされた。

ウ 新規採用の停止

昭和六一年七月、翌年度の正社員の採用計画の見直しを行い、当初七〇名と予定していた大卒事務系の採用をゼロとすることに決めた。

エ 給与カット

昭和六一年九月分給与から、二七名の役員につき報酬の一〇ないし一五パーセント、約二〇〇〇名の管理職につき給与の四・八五パーセントを削減することとした。

オ 賞与の現物支給

昭和六一年一二月に支給された下期賞与において、管理職以上に対し、賞与の一割を自社製品の購入に当てるよう指示し、現金に代えて金券を支給した。

3  ところで、被申請人は、昭和三六年度ころから、従来の工場制を改め、事業部制を導入したが、その導入の当初からいわゆる独立採算制を採用し、各製造事業部は、それぞれが製造した商品を会社内の販売部門に引き渡せば、その引渡価格を売上として計上し、これを当該事業部の生産高として、各事業部ごとに決算書を作成し、利益確保を図るとともにその責任を負担する形をとっていた。

被申請人は昭和六一年一二月一日に東京三洋電機と合併し、製・販一体とする八事業本部制を導入したが、各製造事業部ごとに決算を行い、担当する商品の利益の責任を負うとの、従前からの各製造事業部ごとの独立採算制はそのまま引き継がれた。

4  住道地区にあるテレビ大阪事業部、ビデオ大阪事業部、電子部品事業部及びオーディオ大阪事業部の四事業部は、被申請人の輸出商品生産の主要基地として位置付けられており、昭和六一年一一月期の金額ベースによる輸出比率は、テレビ大阪事業部が九八・二パーセント、ビデオ大阪事業部が八五・八パーセント、オーディオ大阪事業部が八〇・九パーセントに上っていた。このように、極端に輸出比率の高い体質であったため、昭和六〇年後半以降は、前記円高の高進、貿易摩擦、アジアNICSの低価格攻勢などにより、生産量は急減するに至った。昭和六一年度純利益においては、四事業部とも巨額の赤字となり、その合計は被申請人全社の最終赤字額の五倍を超えるに至り、製造段階としては極めて異常な状態となった。

ア テレビ大阪事業部

昭和六〇年度は、中国向け輸出が増大したため、生産高は七一一億円とピークに達したが、他方、北米や欧州向け輸出は前年より減少していたところ、昭和六一年度は、中国向け生産が激減し、北米や欧州向け輸出も大幅に落ち込んだことから、生産高は四四九億円(前年度に比べ二六二億円、率にして三六・九パーセントの減)となり、損益も前年より五五億円減少し、一三億円を超える赤字を計上した。

本件雇止め後の昭和六二年度は、生産高は多少増えたものの、定着的な円高のため損益では更に九億円の赤字が増え、約二三億円の損失を計上した。

イ ビデオ大阪事業部

昭和五九年度は、アメリカでロサンゼルスオリンピックや大統領選挙が行われたため、北米市場が活況を呈し、世界的にも需要が拡大したことから生産高は九四〇億円のピークに達したが、昭和六〇年度に入って落ち込みを始め、北米市場の悪化、欧州向けの輸出規制強化、韓国メーカーの本格的輸出開始、G5以降の急激な円高などにより、前年度に比べ一四二億円、率にして一五・二パーセントの減で、損益は七億円減少し、半分以下の六億円にとどまった。昭和六一年度になると、円高の高進は一段と激しく、欧州向け輸出規制もますます強化され、他方では、NICSの欧州進出などが広く行われるようになったため、生産高は、前年度に比べ更に七八億円、率にして九・八パーセントも落ち込み、昭和五八年度以前の水準に低下するとともに、損益では七〇億円という一事業部としては最大の赤字を計上するに至った。

本件雇止め後の昭和六二年度も状況は一段と厳しく、円高の定着、欧州向けの輸出規制の強化、北米市場における価格下落と在庫の急増などの影響から、ほぼ前年同額の六九億円の大幅な赤字を計上した。

なお、ビデオカメラについては、昭和六〇年度は三億円、昭和六一年度は八億円の生産にすぎず、事業部の七一九億円の生産高から見ると、一パーセント前後のまことに微々たるものである。また、8ミリビデオについては、昭和六一年度に参入したばかりであり、この年九億円の生産をしているにすぎず、この両部門の損益では一九億円の赤字を計上した。本件雇止め後の昭和六二年度は、ビデオカメラは一四億円、8ミリビデオは七七億円の生産高で、前年に比べて伸びたものの、収益面では両部門合わせて前年より更に赤字幅が増え、二一億円の赤字を計上した。こうした一体型ビデオ分野は、ハイテク技術の集積商品ともいえる分野で、各社がしのぎを削って競争を展開しており、需要見通しが不透明で、まだまだ利益が出る段階ではなく、本格的事業に育つには時間を要すると考えられた。そして、新しい商品であるため、設計の合理化や工程の改善等が急速に進んだ関係で、生産に要する人員は逆に漸減しているのが実情である。

ウ 電子部品事業部

電子部品事業部は、三洋電機グループ向けの依存度が高く、特にテレビ、ビデオ、オーディオ関連の住道地区で製造される製品に大半が組み込まれている関係で、この三つの事業部の業績に連動している。

昭和六〇年度は、受注増と中国向けプラントの寄与により五〇三億円の生産高を上げたが、G5以降の円高により価格引き下げ要請が相次いだ結果、損益では前年に比べ二億円、率にして三二・二パーセント減少し、わずか四億円の利益にとどまった。昭和六一年度に入ると、円高は定着し、納入先の生産減の影響を受け、生産高は五八億円、率にして一一・六パーセント減少して、四四四億円にとどまり、昭和五九年度レベルをも割り込んだうえ、損益は前年より一五億円減少して、一転して一一億円もの赤字を計上した。

本件雇止め後の昭和六二年度も、円高の加速によるセットメーカーの海外進出の拡大と合理化による商品点数の減少に加え、アジアNICS製の安い部品が入ってくるなどの影響で、受注は減少を続け、更に急激な販売価格の下落が重なったため、生産高は前年度に比べ更に六八億円、率にして一五・二パーセント減少して、三七七億円にとどまり、損益でも更に四億円の減益となって一五億円の赤字を計上した。

エ オーディオ大阪事業部

オーディオ商品は、昭和五〇年代後半には既に成熟商品分野となり、国際的にも厳しい価格競争時代に入ったことから、経営環境は極めて厳しい状況にあった。その中でオーディオ大阪事業部はCDプレーヤー、ハイファイ商品等の新規商品に力を注ぐことで昭和五九年度まではわずかながら利益を確保してきたものである。ところが、昭和六〇年度に入り、急激な円高とNICSの追い上げ等により受注確保は困難を極めたため、生産高においては前年を四〇億円も下回り、損益については五億七五〇〇万円の減益となり、とうとう赤字に転落したのであった。昭和六一年度は、同年三月に通産省からオーディオ業界は構造不況業種に指定されるほど経営環境が悪化したため、生産高は更に激減し、前年度に比べ、二一九億円、率にして四〇・一パーセント減少して三二七億円にとどまり、損益では五五億円を超える巨額の赤字を出すに至った。

このため、オーディオ大阪事業部においては、本件雇止めをした昭和六二年三月以降生産を全面的に停止したほか、間接部門・技術部門についても昭和六二年六月より八月にかけて大阪市西淀川区の歌島工場に移管・統合し、住道地区におけるオーディオ事業は完全に閉鎖され、オーディオ大阪事業部は大幅縮小を余儀なくされたのである。その結果、昭和六二年度も経営環境は好転するどころかますます悪化し、生産高は巨額の赤字を出した前年より更に三〇億円、率にして九・二パーセントも落ち込むことになり、損益でも四二億円と再び大幅な赤字を計上した。

オ 住道四事業部合計

昭和六〇年度から生産高は既に減少を始め、前年度に比べ四〇億円、率にして一・六パーセントの減少、損益でも一一億円、率にして一七・六パーセントの減益であった。昭和六一年度に入り、生産高は、前年度に比べ一八億円、率にして二四・二パーセントの減少で、一九四一億円と大きく落ち込み、六年前の昭和五五年度レベルに低下した。これは、全社レベルで売上高が一九・九パーセント減少したのを超えるものである。損益も、二〇一億円もの減益となり、一五〇億円もの巨額な赤字を計上した。この一五〇億円という赤字額は、製造段階としては極めて異常と言わざるを得ず、会社全体の最終営業赤字額二八億円の五倍以上に達する。

本件雇止め後の昭和六二年度も、前年とほぼ同額の一五〇億円もの巨額の赤字を計上するに至った。

5  以上のような生産量の急減に伴い、住道地区四事業部においては大幅な余剰人員が発生した。正社員については、事業の再編成と成長分野への積極的投入を目指して再教育と移動が検討された。臨時従業員約一六〇〇名については、勤務先変更が困難であり高度技術職への転換が不可能であるため、完全な余剰人員となることが予想されたが、被申請人としては、当面の生産調整のために、以下のような種々の施策をとることとなった。

ア 正社員の他部署への異動

昭和五八年から昭和六〇年までの間に住道地区から他部署へ異動した正社員の数は一年につき約五〇名程度であったが、昭和六一年度においては合計八四名(テレビ大阪事業部から三二名、ビデオ大阪事業部から一九名、電子部品事業部から八名、オーディオ大阪事業部から二五名)、昭和六二年度上期においては合計一九一名(テレビ大阪事業部から三六名、ビデオ大阪事業部から一九名、電子部品事業部から三七名、オーディオ大阪事業部から九九名)もの正社員が住道地区から他部署へ異動した。

イ 休日振替と年次有給休暇の一斉取得

各事業部では、毎期半年のカレンダーを、向こう半年分の受注動向、販売動向、生産の効率化などを予測したうえ労働組合と協議を行い、上期分(当年一二月から翌年五月まで)は当年一〇月に、下期分(当年六月から一一月まで)は四月に、それぞれ決定し、原則として変更はしないが、昭和六一年下期においては、生産量の急減によりカレンダー通りの稼働日による生産が不可能となったことから、休日を先取りする休日振替や年次有給休暇の一斉取得によって労働日数の減少を図り、生産調整を行った。具体的には、テレビ大阪事業部及び電子部品事業部において一日の休日振替と二日の有給休暇一斉取得、ビデオ大阪事業部において一日の有給休暇一斉取得、オーディオ大阪事業部において三日の有給休暇一斉取得がそれぞれ行われた。さらに、昭和六二年上期のカレンダーを決定するにあたっては、当初から休日振替を多用して長期間の連休を組み込むなど異例の設定をした。

ウ 時間休業の実施

オーディオ大阪事業部では昭和六一年一〇月一日から、テレビ大阪事業部及び電子部品事業部では同年一一月四日から、ビデオ大阪事業部では同年一二月一日から、いずれも臨時社員及び定勤社員を対象として、毎日二時間の時間休業が実施された。これは全体で約一〇パーセントの生産調整に相当する。実施期間については、受注活動に全力を挙げることとするものの終期の目途は立たないとされた。実施にあたっては、各事業部において総合朝礼などで趣旨説明をしている。

この際の条件としては、時間給につき、労働時間分は一〇〇パーセント、休業時間分は就業規則を上回る八〇パーセントの保障をし、また皆勤手当も保障することとしたので、実質上は通常勤務時の収入の約九四パーセントが保障されたことになる。

エ 臨時社員の雇止め

右のように生産調整を実施したものの受注量回復の見通しは暗く、昭和六一年一一月に最終決定された昭和六二年度上期の事業計画は、生産高において、対前期比が、テレビ大阪事業部は八五パーセント、ビデオ大阪事業部は六七パーセント、電子部品事業部は八四パーセント、オーディオ大阪事業部は八五パーセントとされた。こうした中にあって、昭和六二年一月二〇日で契約期間が満了する臨時社員について、昭和六一年一二月一九日、各事業部の総合朝礼において、前回の更新を最終として右期間満了日限り雇止めとする旨が告知された。対象とされたのは、住道地区四事業部で、身体障害者一五名を除く二二七名全員である。この処理とその理由については、定勤社員に対しても同日各職場で通知説明がされた。

臨時社員の場合は、定勤社員の場合とは異なり、退職慰労金その他の退職金制度は一切ないが、右雇止めに際して、被申請人は、月収の約五ないし六倍の金額相当の特別退職金を加算金を付加して支給した。

昭和六二年一月二〇日、住道地区の臨時社員全員は格別の混乱もなく退職した。

オ 定勤社員に対する全面休業の実施

臨時社員の雇止め後も定勤社員の時間休業は継続して実施されていたが、昭和六二年一月には円高の進行が日ごとに顕著となり、新聞紙上等でも一四〇円台に突入するのは必至であるとの予測が伝えられるようになった。

被申請人は、昭和六二年二月三日、定勤社員の総合朝礼において、現下の経営状況を説明のうえ、二月一二日から当分の間全面休業に入ることを通知した。実施日が一二日からとされたのは、既に七日から一一日まで休日振替により五連休を設定していたからである。こうして実質的に全面休業に入る前日である二月六日にも、再度各事業部において全面休業に至った状況につき説明し、なお、今後の被申請人の方針を発表するため、二月一八日を出勤日とした。

この際の条件としては、就業規則の規定を上回る八〇パーセントの時間給を保障することとした。

カ 定勤社員の雇止め

被申請人は、二月一四日、住道地区の四事業部とも、各事業部において、昭和六二年三月二〇日限り定勤社員の雇止めをする旨正式に決定した。この際、定勤社員の間で希望退職を募ることは検討されなかった。対象とされたのは、四事業部全体で、本人が身体障害者の者一三名、配偶者が身体障害者の者五名、母子家庭の者四三名を除く定勤社員一一八〇名全員である。大量の雇止めとなるため、事前の二月一六日に所管の門真職業安定所に対して報告をした。雇止めの際の条件としては、規定上の退職慰労金のほか、特別退職金、特別加算金などを付加して支給することとした。この措置により、一人当たりの平均支給額は、月収の約八倍に相当する八四万円程度となる。

雇止めの意思表示は、二月一八日の前記出勤日に、各事業部において総合朝礼を行い、各事業部長より、引き続き三月二〇日まで全面休業せざるを得ないこと及び契約期間が満了する三月二〇日以降の再契約はできず雇止めとすることを通知してされた。右事業部長からの通知の後、各事業部の管理部長あるいは人事担当者より、退職条件や社内の事務手続などについて、門真職業安定所の職員より、雇用保険受給手続や再就職の見通しなどについて、それぞれ説明が行われ、さらに、朝礼の後、各事業部において個人面接を行い、雇止めに至った事情とその旨を記載した文書を手渡して、雇止めに対する理解と納得を求め、退職慰労金等の説明をするなどした。

6  一方、被申請人の昭和六一年度から昭和六三年度までの経常利益はそれぞれ一五一億五八〇〇万円、一六〇億五九〇〇万円、二九二億一六〇〇万円であり、この間一株八円の配当を維持し、昭和六二年一〇月には、合計一〇〇〇億円の無担保転換社債を発行している。また、被申請人の営業損益は、昭和六二年度こそ五四億九〇〇〇万円の損失を計上したものの、昭和六三年度には逆に五六億八一〇〇万円の利益に転じている。また、日本経済新聞社が昭和六二年八月に発表した優良企業ランキングでは、六一位と評価された。なお、住道地区においては、昭和六三年八月三日付けで、高卒女子八八名の採用を募集し、平成元年一月九日付けでは一七二名に増員している。

二  右一応認める事実によれば、被申請人は、住道地区にある四事業部において独立採算制を行っていたところ、右各事業部は極端に輸出比率が高かったため、円高の高進、貿易摩擦、NICSの攻勢などの外圧により、昭和六一年度以降は極端な業績不振が顕在化し、容易に回復の見通しが得られなかった。そこで、被申請人は、輸出主体の企業であることもあり、右原因となった事情に対抗し、将来の収益を確保するためには、生産の海外シフトの推進など生産方法の転換を含む企業構造の根本的な変革が必要であると考え、住道四事業部における生産の効率化を計画し、雇用量の調整弁として位置付けていた臨時従業員につき、今こそその本来の機能が消極的方向で果たされるべきであるとして、申請人らを含む定勤社員全員に対する本件雇止めに至った。と推認することができる。

右一応認めた被申請人住道四事業部の業績悪化の状況、その原因となる外的内的双方の事情を考えると、被申請人には事業部門の縮小あるいは人員の削減をすべきやむをえない経営上の必要があったものと認めることができる。そして、人員整理を行う場合、前記認定のように採用形態や処遇に差異のあることに照らし、まず申請人ら定勤社員を第一順位とすることにも、合理的な理由があるといえる。しかしながら、前示のように、定勤社員契約は実質的に期間の定めのない契約であり本件雇止めの効力を判断するに当たっては解雇に関する法理を類推すべきであるとの立場に立つ限り、そのような場合でも、使用者としては解雇(雇止め)回避のための努力を尽くすべきであると解されるところ、一6において一応認めた事実によれば、被申請人は、住道四事業部の業績悪化あるいは本件雇止め当時の営業赤字の発生にもかかわらず、企業全体としてはまだまだ余力を残していたと推認することができ、そうである以上、本件においては、たとえ定勤社員の雇止めをするとしても、ただ定勤社員であるというだけの理由で直ちに全員を雇止めの対象とすることまで正当化されるとは解し難く、まず削減すべき余剰人員を確定し、定勤社員の中で希望退職者を募集するなどの手段を尽くすべきであったというべきである。しかるところ、前示認定のように、被申請人は、休日振替、時間休業等の手段は採用したものの、定勤社員の雇止めにあたっては、希望退職者を募集することなど全く検討せず、余剰人員確定の努力をした形跡も何ら認められないのであり、そうすると、被申請人は、前記のような経営上の必要がありさえすれば定勤社員全員の雇止めは当然許されるものと考えて本件雇止めをしたとみるしかないが、かかる処置は、前示定勤社員契約の実質に照らしても、いわゆるパートタイマーに寛容な近時の社会通念に照らしても、合理性を欠くといわなければならない。

以上のとおり、本件雇止めは十分な回避努力を欠く点において合理的理由がなく、無効である。

(保全の必要性と仮払いを命ずべき金員の額について)

一  以上によれば、申請人らはいずれも未だ被申請人の従業員たる地位にあるというべきであるところ、被申請人は本件雇止めによりその地位が消滅したとしてこれを争っている。また、本件疎明資料によれば、申請人らはいずれも被申請人から支給される賃金を主要な収入として生計を営んできたものであることを一応認めることができ、本件雇止めに伴い右賃金収入を断たれたことによってその生活は困窮し、本案判決の確定を待っていては回復し難い著しい損害を被るおそれがあることを優に推認することができる。したがって、本件においては、仮処分により申請人らの従業員としての地位を保全し、かつ、賃金の仮払いを命ずべき必要性がある。

二  ところで、申請人らは、申請の当初、本件雇止め当時の各自の時間給(池田富子、岡田久子、立石安子、山本孝江及び山本安子は七六〇円、上西眤子、高津美佐子、筒井初枝及び中川作枝は七三五円、池田良子、黒井静子、中本きみ栄、福田節子、真鍋勝子及び矢野エイは七一五円)に七を乗じて一日当たりの賃金額を算出し、更に、月当たりの出勤日数は二三日であるとして、右日額賃金に二三を乗じた積を月額とし、その仮払いを求めていたが、手続の最終段階に至ってこれを変更し、一方では月当たりの出勤日数を二一日であると改め、他方では、勤務を継続することにより、昭和六二年三月二一日からは上西眤子、高津美佐子、筒井初枝、中川作枝、池田良子、黒井静子、中本きみ栄及び真鍋勝子が、昭和六三年三月二一日以降は最も勤続年数の短い福田節子と矢野エイをも含め申請人ら全員が、最高ランクの時間給を得ることになるとの前提の下に、更に本件雇止め後の一般的な時間給の増額分(昭和六二年四月以降一五円、昭和六三年四月以降二〇円、同年一〇月以降二〇円、平成元年四月以降六〇円)をも加味して、賃金月額を段階的に修正したうえ、五季にわたる一時金の支給分をも加算し、その合計額から申請人ら各自が退職金等の名目で被申請人より受領した金額を控除した差額の仮払いを求めることとした。

これに対し、被申請人は、右変更の根拠となる申請人らの主張を全面的に争うものの、月間所定労働日数は平均二〇・三日であること、定勤社員の時間給が昭和六二年四月には標準者で一五円、昭和六三年四月には標準者で二〇円それぞれ上昇したことを認め、昭和六二年夏・冬、昭和六三年夏・冬及び平成元年夏の各季における賞与の支給基準を明らかにし、なお、賞与の支給額は成績格差により支給基準から一〇パーセントの範囲内で上下すること、定勤社員の時間給の上昇は昭和六三年四月から後はなく、申請人らの主張する同年一〇月及び平成元年四月の上昇は新設された「準社員」について当たるにすぎないことを指摘する。

思うに、時間給のランクが勤続年数により自動的に決定されるとか、申請人らがその主張のとおりに確実にランクの上昇を得られるとかを一応認めるに足りる疎明資料はないから、本件雇止め後の時間給のランクの上昇を前提とした主張は理由がない。また、一時金の支給は使用者たる被申請人の査定に係ると解され、申請人らが当然請求する権利があるというものではないばかりか、右査定の内容を推認するに足りる的確な疎明資料もないから、この部分に関する申請人らの主張は、被保全権利の存在及び金額の点で疑問があるといわなければならないが、それはさておき、後記のとおり、保全の必要性を認めることができないので、失当というべきである。しかしながら、昭和六二年四月及び昭和六三年四月の時間給の上昇に関しては、標準的な定勤社員につき一律に増額されたものと解されるところ、申請人らのいずれかがその勤務成績等に照らし右増額から排除されることが確実であるとの主張も疎明もないから、申請人ら全員につき被保全権利の存在を一応認めることができる。これに対し、昭和六三年一〇月及び平成元年四月の上昇については、本件全疎明資料によっても申請人らが当然準社員になるとまでは認め難いから、被保全権利の存在を肯認することができない。

三  そこで、保全の必要性の観点から仮払いを命ずべき金員の額について判断するに、一般に、賃金の仮払いを命ずる仮処分は、賃金の支払が受けられないことにより労働者及びその家族の生活が危機に瀕し、本案判決の確定を待てないほど緊迫した事態に立ち至り又は立ち至る具体的現実的なおそれがある場合に、その窮迫状態を暫定的に救済することを目的として発せられるものであって、保全すべき権利の終局的実現を目的とするものでも、他の従業員と同様の生活水準を保障することを目的とするものでもないから、仮払いを命ずべき金員の額も、各人の原状の生活様式をそのまま維持するに要する額ではなく、各人の生活状況に応じて前記窮迫状態を回避するに必要な最少限度の額で足りると解すべきである。この立場に立ち、疎明資料により一応認める申請人各自の生活の実状、家族構成、生計を一にする家族の収入の状況並びに借金及び生活費の概要、賃金額の計算に関する申請人らと被申請人それぞれの主張、本件事案の実体と審理に要した時間等諸般の事情を考慮すると、本件雇止め当時申請人らがそれぞれ得ていたランクの時間給を基準とし、これに昭和六二年四月及び昭和六三年四月の一般的な増額分を加算し、一日の就労時間数七と月間の予想出勤日数二〇を乗じた積を月額として、昭和六二年四月から本案の第一審判決の言渡しがあるまでの間に限り(具体的には別紙認容債権目録記載のとおりである。)保全の必要性を認めることができるが、一時金の支給分をはじめ申請人らのその余の請求にかかる部分については、保全の必要性を肯定することができないというべきである。

(まとめ)

よって、申請人らの本件仮処分申請は、それぞれ被申請人の従業員たる地位にあることを仮に定め、別紙認容債権目録記載の各金員の仮払いを求める限度で理由があるから、保証を立てさせないでこれを認容し、その余は、被保全権利及び保全の必要性を認めることができずかつ保証を立てさせてその疎明に代えることも相当でないから、これらをいずれも却下し、申請費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条但書を適用して、主文のとおり決定する。

(裁判官 石田裕一)

認容債権目録

池田富子 金三七五万〇六〇〇円及び平成二年二月から本案の第一審判決の言渡しがあるまで、毎月二五日限り月額一一万一三〇〇円の割合による金員

池田良子 金三五三万六四〇〇円及び平成二年二月から本案の第一審判決の言渡しがあるまで、毎月二五日限り月額一〇万五〇〇〇円の割合による金員

上西眤子 金三六三万一六〇〇円及び平成二年二月から本案の第一審判決の言渡しがあるまで、毎月二五日限り月額一〇万七八〇〇円の割合による金員

岡田久子 金三七五万〇六〇〇円及び平成二年二月から本案の第一審判決の言渡しがあるまで、毎月二五日限り月額一一万一三〇〇円の割合による金員

黒井静子 金三五三万六四〇〇円及び平成二年二月から本案の第一審判決の言渡しがあるまで、毎月二五日限り月額一〇万五〇〇〇円の割合による金員

高津美佐子 金三六三万一六〇〇円及び平成二年二月から本案の第一審判決の言渡しがあるまで、毎月二五日限り月額一〇万七八〇〇円の割合による金員

立石安子 金三七五万〇六〇〇円及び平成二年二月から本案の第一審判決の言渡しがあるまで、毎月二五日限り月額一一万一三〇〇円の割合による金員

筒井初枝 金三六三万一六〇〇円及び平成二年二月から本案の第一審判決の言渡しがあるまで、毎月二五日限り月額一〇万七八〇〇円の割合による金員

中川作枝 金三六三万一六〇〇円及び平成二年二月から本案の第一審判決の言渡しがあるまで、毎月二五日限り月額一〇万七八〇〇円の割合による金員

中本きみ栄 金三五三万六四〇〇円及び平成二年二月から本案の第一審判決の言渡しがあるまで、毎月二五日限り月額一〇万五〇〇〇円の割合による金員

福田節子 金三五三万六四〇〇円及び平成二年二月から本案の第一審判決の言渡しがあるまで、毎月二五日限り月額一〇万五〇〇〇円の割合による金員

真鍋勝子 金三五三万六四〇〇円及び平成二年二月から本案の第一審判決の言渡しがあるまで、毎月二五日限り月額一〇万五〇〇〇円の割合による金員

矢野エイ 金三五三万六四〇〇円及び平成二年二月から本案の第一審判決の言渡しがあるまで、毎月二五日限り月額一〇万五〇〇〇円の割合による金員

山本孝江 金三七五万〇六〇〇円及び平成二年二月から本案の第一審判決の言渡しがあるまで、毎月二五日限り月額一一万一三〇〇円の割合による金員

山本安子 金三七五万〇六〇〇円及び平成二年二月から本案の第一審判決の言渡しがあるまで、毎月二五日限り月額一一万一三〇〇円の割合による金員

当事者目録

申請人 池田富子

(ほか一四名)

右申請人ら代理人弁護士 出田健一

同 寺沢勝子

同 永岡昇司

同 國本敏子

同 田窪五朗

同 鎌田幸夫

同 東垣内清

同 戸谷茂樹

同 田島義久

同 梅田章二

被申請人 三洋電機株式会社

右代表者代表取締役 井植敏

右代理人弁護士 竹林節治

同 畑守人

同 中川克己

同 福島正

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